河原の石
この間Kill me Redについて話したけど。
4曲目、Augustがすごく良い。なんかもう、何回でも聴けるわって思う。何回でも聴きたいって思う。
あんまり言い方としては好きではないけどNOA感がある。NOA感がなんなのかを言葉にできないけど。まあそりゃあ同じ人が作ってるんだからと言えばそこまでだが。
DanabluとNOAの決定的な違いってなんだろうね。暗さ?たしかにDanabluの方がなんとなく明るいイメージはある。
要するにAugustは少しだけ暗い。歌詞も、曲も。これは僕の感じ方なのでもちろん聞いた人が感じたのが全てなんだけど。何かを失くしてしまった音がする。こう、穴が空いてるみたいな。カッコつけて文学っぽく言えば何かを失くして空いてしまった心の穴を風が通り抜けていく寂しさ、哀愁みたいなものがある。夏の終わりにどうしようもなく寂しくなるあの感じに似ている。別に何もなかったのに終わりが寂しいのに似ている。
特に、転調の仕方がすごくいいと僕は思う。音楽ライターじゃないから難しいことはわからないので感覚的になってしまうけど。だんだん高まっていく熱みたいに、少しずつ緊張していくみたいに曲が速くなる。少しずつ変化していくのに、次の小節?が始まったら別の曲になったかと錯覚してしまう。なのに、同じ寂しさはずっと付いてくる。すげえ。
04 Limited SazabysのBuster Callみたいな劇的な転調とは違くて、Track'sのDaydreamみたいに伸ばすように速くなるのとも違くて。新しい!って思った。僕の知識不足だったらごめんだけど。
メロコアなんて、と言う人がたくさんいるのは事実。速いだけじゃん、激しいだけじゃん、と言う人がたくさんいる。どれも同じじゃんドコドコツービート叩いてさ、なんてことも言われる。まあ自分がやってるわけではないけど。
それでもやっぱりこうやってうまく言葉にできない感覚的な違いっていうのがある。それをしっかり決める自分の基準っていうのがちゃんとあることがDanabluのKill me Redを聞いてなんとなく意識できた。まだまだだけど。
よくBIGMAMAの金井が言ってた。Sweet Dreamsやり始めた頃かな。僕たちの曲は、誰かにとっては本当に河原の石に過ぎないんだよって。誰かにとっては君にとってのダイヤモンドも石ころに過ぎないんだよって。でも、誰かから見たら石ころでも、素敵な宝石だと言って一緒に大切にできたら、それは素晴らしいことなんじゃないかなって。その頃の金井は無価値の価値、価値の無価値という言葉をすごくよく使ってた。その時からずっとその言葉が響いてるんだよね。長くなりそうだからまた書くか。
音楽が、曲が、河原の石であるように、人間も当然河原の石なんだな。
いつか、河原の石の中から大切な宝石を探し出そう。そしていつか、河原の価値のない石ころの自分を宝石のように大切にしてくれる誰かに出会えたら。
いつかそんな日が来るといいなあ。
Kill me Red
DanabluのKill me Redが素晴らしい。
5月の涼しさ、なかなか暗くならない夕暮れ、このオレンジの明るさにぴったりだ。
そもそもDanabluはそういう季節のバンドだなと思っている。
真夏でもなければ真冬でもない。
時間もそう。真夜中でもなければ真昼でもない。
変わりゆく季節の真ん中に、変わりゆく空の色の真ん中に、早すぎる時間の流れをゆっくりと感じさせるようにDanabluの音楽はそっと置いてあるようなイメージがある。
たった1人ではないと思えるような気がする。
1人ではないからどこか少し寂しくて、1人ではないからどこか少しあたたかい。
そういうところが好きだ。
昔好きだった人のことは覚えてはいるけどほとんど忘れてしまったし、
仲間だ、友達だ、大切だと思っていた人は結局今はどうでも良くなって何をしているかの興味も持てずにいるし、
そうやって少しずつ移ろいで行くな、移ろいで行く中でたくさんのものは持っておけないから少しずつ置いてきてしまっている。
でもたまに振り返ると置いてきたものはどうしようもなく美しいフリをしていて後悔に形を変えて追いかけてくるけれど、
そういうものを振り切るために、殺すためにもっと早く走らないといけない。
なかなかうまくいかんなあ。時間もかかる。
いつかそういうものの上に立って笑いたいもんだね。
さよなら
もうすぐ、自粛期間が明ける。あっという間だった。
考え事をたくさんした。とりとめもないことをたくさん。
ギターは上手くならなかった。まあそこそこ弾けるようになったけど。もっと簡単だと思ってた。簡単だからたくさんやらないといけないのかもしれない。
きっと自粛期間が明けても日常は戻らない。もう日常がなくなった人だっている。自分の日常だってうっすらと消えかかっている。なくならないとは思うけどね。
でも、目指すところが見えたから有意義な時間だった。今までちゃんと考えたことなかったんだな〜。
今まで、と考え始めると後悔がたくさん押し寄せてくる。
何かを手に入れることが自由になることだとはき違えるべきではなかった。
ちょっと遅くなっちゃったけどまた始まればいいな。間に合うかわからんけどね。頑張るよ、いろんな問題があるけど。
答えてワルキューレ迷いなどないよと
毎日書いてないし、その日に起こったことを書くわけじゃないんだから別に日付のタイトルじゃなくてええやんってなったのでやめました。スタートはBIGMAMAでワルキューレの非行からもらいました。理由はなんか頭の中で鳴ってたから。
音楽が好き、というと語弊が出てくるので今まであんまり言わないようにしてたんだよね。でもあの演歌の時にああ、全般的に好きなのかもって思って言ったことはあるか。あれは本質だったな。本質はそうだけど事実は微妙に違う。音楽が好き、は広過ぎるから。好きなものが好きなんだよね。バンドが好き、もちょっと広いね。ビジュアル系とか重すぎるハードコアとかメタルはあんまりだもんなあ。まあ服もデザインもそんな感じなんだよな。背伸びしないでいよう。わからないことはわからないと言うから。
背伸びと言えばさ、久しぶりに大きくないサイズのTシャツを着てちょうどいいより少し小さめのサイズのパンツを履いたんだ。なんか少し変だなって思った。これがちょうどいいはずなのに。背伸びと似ているような気がしたんだ。いつも大きく見せていると本当の姿になった時に物足りなくなってしまうんだな〜。そういえばむかし椎木知仁が一目惚れツアーくらいの時に君と付き合うのはサイズの合わない服を着ているみたいだったなって言ってたのを聞いて妙に納得したのを覚えてる。そんな体験がないと真赤みたいな曲は書けないよな。昔の僕は、ちょうどいい服を着るような恋をしていたけど、ブランドの服を着るようなものに憧れていたのかも。大きな服を着ている僕は、高校生の僕にはきっと勝てない。
ずいぶん久しぶりになってしまった。最近は好きなラジオを聴いて、好きな本を読んで、たまにギターなんか弾いたりしちゃって、これまたたまに好きな絵を描いたりしてるよ。あと釣りをして生計を立てればスナフキンになれるな。たまに良いことを言うくらいの人生観がいいのサ。でも誰かを納得させるでもなく、ただ心地よく生きて、そんで死んでいく。胸を張って心地よい人生を生きて、死んでいく。そういうことだから。
5月5日
思い立ったからまた。子供の日なんだってさ今日は。昔はベランダに鯉のぼりを出してた気がするんだけど、何か特別なことをした思い出はないなあ。何かしてたのかもしれないけど、カブトとかが出てきたことはないかも。
InstagramとかTwitterのSNSが発達したから、世の中が見やすくなった。世の中と言って括っていいのかは疑問だけど。だからだんだんと文化が変わっていくのを肌で感じるし、自分がやってこなかったことがわかってくる。今日が子供の日だからそうだなあと思っただけなんだけど。SNSを見てると子供の日だからって子供の頃の写真をあげてる人がたくさんいる。これは新しい文化だなあと思った、ちょっと冷たい気持ちで。誰かの子供が子供の日を祝われてるのを見て、自分は祝われてないなあと思った。でも別にこれはされてなくても問題ないな。そんなきっかけでしたね、子供の日。
昨日リモートで高校の同期に会った。誘ってきたやつ、全然仲良いと思ったことない。まあ普通くらい。一方的に仲良いと思われてるやつ。まあいっか。正直ものだからちゃんと態度に出すけどね。幸せなら態度で示すのなら、不満も態度に出していこう。他の4人は仲良しだ。もう1人呼びたかったなあ。まあ楽しかったけど。正直でいるが故に、疑念を持ってしまうのが欠点だね。話すぎるのが僕の悪い癖。
ちょうどいま、地震があった。緊急地震速報が鳴って、2分後くらいに地震が来た。みんな揺れた!なんてSNSで言う前に自分のこと守った方がいいぜ。それと、危機感を持つのはとても良いけど不安感を煽るのはマジでやめたほうがいいぞ。イケてない。マジで。気をつけな。
じゃあね。
5月2日
正味働き方とか生き方とか誰かが決めることじゃないんだよなあ。特に自分の育った環境は全体としては古い慣習の中で正しいと思われているものを押しつけてくるようなものだったけれど、その中でもそんなことは気にするなって言ってくれるような感じだった。好きなこと好きなようにやれよ、でもばれないようになって言ってくれていた。自分とは別の正しいと思えないものを見つけてあれは頑張ってない、あれはダメだというのはそれを押し付けられる環境にいたんだろうな。最近わかったことだけど、自分がされたことを人にしてしまう。世間的に見て正しいことだけをしなさい、というのが彼には染み付いている。できればもう関わりたくないけれど。そういえば銀行の上司もそんな感じだったな。そもそも銀行がそういうところだった。そうなんだよな。
このブログはそういう人をダメだと言っているじゃないか、と言われればまあそうだけど微妙に違う。ダメだとは思わない。その人の正しさを信じて生きていけばいいと思う。勝手にしてくれればいいと思っている。でも、それを押し付けるのは違うと思う。それはとても寂しいことだよ。まだ熱くなってしまうことが多いけれど、いつかハライチ岩井さんのようにハハッって笑って流せればいいと思う。その人が育ってきた環境まで見透せてきてるんだからそろそろだ。岩井さんの言葉を借りれば、誰も彼もみんな頑張ってる、お前がその言い方で見下してるやつも頑張ってるんだよな。
恋愛もそうなんだ。今までは顔がかっこいいとか、金を持ってるとか、勉強ができるとか、スポーツができるとか、いい大学に通っているとか、いい企業に勤めているとか、安定しているとか、そういうところに好きがあると思っていた。そこじゃなかったんだ。まだしっかりと掴めてはいないけれど、なんとなくそこにある気がする。そこは本質じゃないんだ。気づくまでに23年もかかってしまった。昨日の金スマを見ててやっと輪郭が見え始めたよ。
2020年の目標、というかこれからの目標が決まった。
胸を張って生きることだ。
4月30日
今日で4月が終わる。終わる終わると言っていたけれど本当に終わる。別になにがってわけじゃないけれど、終わりはいつも寂しいね。毎回言ってんな。でもどんなに思い入れがなくても終わりは悲しいもんサ。
世の中は前までのままだね。暗いし、疲れてるね。どうすることもできないね。震災の時のように助けに行っていいわけじゃない。お金で支援することはできるけど、お金がない。今の自分にはできることはひとつもない。残念だけど。きっと普段明るい人が暗くなって疲れてしまった時、自殺する人が出てしまう。それは本人かもしれないし、周りの人かもしれない。わからないけれど絶対にそういうことが起こる。普通じゃないことが普通になってしまった時にはそういうことが起こってしまう。でもどうすることもできないし、見ているだけだ。この騒動が収まってからが俺のターンなのよ。もう少し我慢する。
ぼんやりテレビを眺めていると才能とか多才という言葉がよく聞こえてくる。才能がある人はとても羨ましいのはあるんだけどそれはまた別の話で。この前置きをするのは嫉妬してるの?って聞いてくるあいつのことをすこし怖がってる証拠だろう。そんなことより、だ。才能という言葉が怖い。というのも才能とひとことに言ってしまうとまるで与えられてできるようになったもののように聞こえるからだ。きっと華やかなその人の見た目の裏には想像もつかないほどの努力か楽しみながらも費やした時間があるのに、それを才能のひとことで片付けてしまうのが怖い。それを全て無視するようで申し訳なくなる。できれば自分は使いたくないね。ない時にだけ使おう。でも使っちゃうんだよ、多く流れてる言葉は便利だからね。
まあこの辺だな最近は。また夏が来るね。5月にまた会おう。